奥山半僧坊と方廣寺とは


 奥山半僧坊大権現は方廣寺(正式には深奥山方廣萬壽禅寺、略して深奥山方廣寺)の鎮守の神ですが、一般には正しく認識されてゐない嫌ひがあります。

 そこで、此のことについて浜松市引佐町久留女木老人クラブ会報に、平成18年7月から3ケ月に渡って、奥山半僧坊繁栄会の者が解説した一文を以下に掲げ、一般の皆様方の参考に供することとしました。

 其の一 方廣寺の事

 京都東山の麓に太閤秀吉が建立し、文禄四年(西暦1595年)に其の大佛殿が略完成した『方廣寺』があります。この御寺の梵鐘は慶長十七年(西暦1612年)に製作されたものですが、その銘に『国家安康』、『君臣豊楽』なる二文があるのを、『家康なる名前を二分しね國安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ意味だとして家康が激怒、大阪冬の陣が起きるきっかけに成ったとの事です。

 従ひまして、『方廣寺』と言へば、京都東山の『方廣寺』と言ふのが世間的相場と言って差支へないやうです。

 所で、奥山の地、『姥懐(ウバガフトコロ)』の御寺の山号は深奥山(ジンノウザン)で、御寺は『深奥山方廣萬壽禅寺』、略して『深奥山方廣寺と称し、後醍醐天皇の第十一番目の皇子であられる無文元選禅寺が至徳元年(西暦1384年)に建立され、御寺の在る『姥懐山』が、シナ大陸で修行された『天台山方廣寺』に似てゐる事から付けられたさうです。

 従って、御寺の格を考へると、成上り者と言っても過言ではない太閤が建てた御寺なんかよりも、臨済宗方廣寺派の大本山でもある深奥山方廣寺の方がずっと上だと言って良いと思ひます。

 扨、この二つの『方廣寺』をどうやって区別するかですが、京都東山の方は、京都なる地の利やら太閤秀吉の権勢にあやかって修飾語など不要と考へてゐるのではないかと勝手に邪推してをります。そこで、我が『方廣寺』の方となると些か複雑で、明治維新政府の意向で御寺の整理統合が行はれた際、一時的に京都南禅寺の末寺と成る憂き目にあったものの明治中期に本山に復帰してからは『大本山方廣寺』なる名称が誇らかに使はれ始めたと思はれます。

 然し、文献には奥山の地名を被せて『奥山方廣寺』とする例も散見され、現にこの呼称を使はれる方もをられますが、『深奥山方廣寺』が妥当かと、僭越ながら、思ったりしてゐる昨今です。

 其の二 半僧坊とは

 深奥山方廣寺の鎮守の神が奥山半僧坊大権現ですが、その由来は必ずしもはっきりしてはゐないやうです。

 昭和四十一年発行の『方廣寺』なる小冊子には、開山様の無文元選禅師がシナ大陸の唐から帰国の途上、難破の憂き目に遭った時に眼光鋭い大男が舟の舳先に現れ、船頭を指揮して無事博多に着けた、とあり、後年禅師が奥山の地に入られると、再びこの大男が現れ、禅師の教化を得てその教へを守る事を誓ひ、その聖業を助け、後にその教へが世に遍く伝はる事を助けると共に御寺を守護せむとて、当山の鎮守と成ったと記されてをります。

 然し、これだけでは半僧坊なる名称の由来が判りません。発行年代不明ですが、東京の講の有志が発行した『奥山半僧坊由来記』によると、開山様に弟子入を願ひ出た際、若干の問答があって、『汝、半ば僧に似たる所あり』との御言葉に『我は半僧なり』と御満悦の体で、自他共に半僧と称したやうだ、とあります。ただ、その前段では、御寺が出来る前から寺内の金山(カナヤマ)に居住し、元は千有余年前に富幕(トンマク)に在った森羅堂(シンラドウ)の守護者だったのが、寺の廃絶の際に金山移住したとの言伝へがあるとしてあります。

 所で、半僧坊の御利益は明治十四年の大火で焼残るまでは海難防除が中心で、焼残ってから、俄かに火伏の御利益が脚光を浴び、数多の善男善女が訪れるやうになって門前の町が出来た事からすると、開山様を難破の憂き目から御救ひしたとの下りが必要で、前者の前段と後者の後段を組合せれば辻褄が合ふと考へ、案内ボランティアではさう説明してゐます。

 扨、奥山を付け奥山半僧坊とする呼称が一般的ですが、これは明治に成ってから半僧坊の御分身が全国津々浦々に祀られるやうに成り、御本尊は奥山に在りとの意を込めたものと考へられます。又、その背景は十六弁の菊の御紋を戴く御寺の鎮守様を祀る事が、廃仏毀釈の嵐を避ける『錦の御旗』だったと思はれます。

 其の三 宗務本院と半僧坊教会

 知客寮を挟んで本堂と繋がる大庫院の玄関の上り框(カマチ)最上段の右側に『臨済宗方廣寺派 宗務本院』、左側に『遠州奥山 半僧坊教会本部』なる大きな看板が掲げられてゐます、これが臨済宗方廣寺派大本山方廣寺の何たるかを如実に表してゐるものだと思ひますが、門外漢の頓珍漢でもなささうです。

 この宗務は宗教上の教務ですから、御寺は臨済宗なる禅宗の僧侶の養成を司り、堂塔伽藍が立並ぶ本堂周辺から北東の方向には禅堂(深奥窟)が在って、雲水が座禅三昧に耽(フケ)る所で、御寺としては修行の場としての荘厳さが不可欠です。

 又、禅宗は座禅三昧にて悟を開く事を目指す宗派ですが、信徒の立場からすると些か取っ付き難いのが難と思はれます。そこで、世俗の世界から注目を集めるのが禅寺の鎮守様だと言ったら和尚さんの顰蹙(ヒンシュク)を買ふ事になりませうか。鎮守様は権現様の外、明神様もあって後者の例が豊川稲荷です。

 で、半僧坊教会本部は奥山半僧坊の御利益にすがったり、信奉する善男善女の皆様の御用命を承ったり、御世話したりするのが役目です。今、明神と言ふ言葉を使ひましたがこれは神様で、権現共々、かっての神仏混交の名残がが、明治政府の神仏分祀令にも関らず根強く残ってゐます。

 従って、大本山方廣寺は荘厳なる雲水修行の場であると共に権現様の御利益を仰ぐ善男善女が集う所でもあり、観光の見地からすると善男善女で大賑ひなる仕組を積極的に取入れて欲しいとは思ふものの、修行道場としての荘厳さの確保も肝要であるとの難しさがあります。

 そんな状況の中で半僧坊案内ボランティア活動を続けてゐますが、上述の両役割を合せ、この御寺でしか出来ない催しが企画出来ないものか、との思ひも頭をもたげて来ます。何かのきっかけで、この思ひの一端なりとも実現すれば、『浜松の鞍馬山であって欲しい』との熱い期待にも応へられると思ふのですが。


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